私は学生の頃から、基本的にずーっと「推し」という存在がいました。長い間同じ一人の人を推していたわけではなく、定期的に変わっていったものの、常に誰かを応援していました。ところが最近。なんか、「推し」というほどの人がいないのでは?と気づきました。どうやら、自分の中でじわじわ〜〜〜と感じ始めていたことを、少しずつ自覚してきたようです。今回はそんな私の「推し活」をやめてみた、のお話。あ、決して「推し活」というものを否定したい気持ちがあるわけではなく、個人の意見ですのでそちらご了承の上、読み進めていただければと思います。
私がなぜ、「推し活」をやめてみようと思ったのか。理由は3つ。
【推したちが引退していった】
あれよあれよと、推したちが年齢ゆえか引退し、解散し、活動を休止する。さあ、私は一体誰を推せばいいんでしょうか?と思いきや、学生の時より推し活するお金はあるけれど、学生の時ほど推し活する体力がないことにも気づきました。熱量も続かない。
【推しも私と同じ、人間だった】
当たり前ですが、「推したち」も人間なのでやらかしてしまう時があります。人間だもの。それなのに、完璧な存在だと思い込んでしまっていました。それでも擁護し続ける・応援し続けるのが「推し活」なのであれば、私にとって「推し」は「推し」ではなく、ただの「好き」、ただの「ファン」だったのかも。
ハマっている当時は「一生好き」とか思うんですけれど、「一生好き」が存在しないのは自分を見てても周りの推し活をしている人を見てもわかります。新しいもの、見つけちゃうよね!笑
【人様を応援している場合ではなかった】
コロナウイルスをきっかけに、推しに会えないことになった私は、何だかぽっかり穴が空いたような日々を過ごしていました。そんな中、もしかして自分のお金を時間を、もっと言うと人生を、人様に貢献しすぎていたのでは?と思うようになっていきました。そして、「推し活」をしている自分に酔っていたのでは?と考えるほどに。(我ながら冷静すぎ。)
私は年々、自分の人生を謳歌したい!という気持ちが大きくなっている分、人の人生を応援してる場合ではないと気づいたのです。自分の人生ありきで、ちょっとした娯楽での「推し活」という楽しみを追加するバランスが合っているのかもしれません。(推し活と言っても、普段は曲を聴くくらいで、たま〜にライブや試合に行く程度で十分。)私の人生の主役は、推しには代われません〜!
けれど、「推したい」「応援したい」っていう存在がいるだけで、なんかちょっと羨ましいなと思ったりもします。夢中になれるって素敵。「推し」がいたからこそ乗り越えられた人生の壁も、ちゃんとあるのです。だから、本当に推しって、推し活って、素晴らしい。ありがたい。
私は今まででその「推し活」とやらを、とことん楽しんだんだと思います。楽しみ切った。だから、「推し活」からは卒業しようかな。これからは、心の中で小さく応援していきます。そして、自分の人生を謳歌させるために日々を積み重ねていきます。私、きっと「推し活」を通して成長したんだな。
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